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「行ってきます」親しんだ地を離れ故郷へ帰る子どもたち 劇に込めた避難先への感謝<もっと!ぐっと!大熊町>

※ 動画はこちらからご覧になれます(YouTubeサイトへ)

東日本大震災当時、福島県大熊町にあった町立の小・中学校3校は、原発事故で福島県会津若松市へ避難した。2022年に義務教育学校の「学び舎ゆめの森」に形を変え、2023年4月には12年ぶりに大熊町へ戻る。町内では、新しい校舎の建設も進められている。
復興の一歩ではあるが、子どもたちにとっては慣れ親しんだ場所を離れる寂しさもあって、思いは複雑だった。
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<震災・原発事故 学校が通えない場所に>
2011年に発生した東日本大震災。大熊町は、地震と津波の被害に加えて、原発事故で町の全域に避難指示を受けた。
「3月11日」...この日を境に、通いなれた学校は"通えない場所"となった。

そして新たな学び舎となったのが、避難先の会津若松市で小学校として使われていた建物。
2011年4月19日・始業式で児童代表が語ったのは「住み慣れた大熊町とは違って、まだ慣れない場所なので、本当は不安がありますが、前からの友達や沢山の新しい友達と力を合わせて頑張って行きたいと思います。熊小の皆さん、大野小の皆さん、そして先生方、どうぞ宜しくお願いします」という言葉。

体育館がいっぱいになるほどの子どもたち。大熊町の小学校2校が、同じ場所で学ぶことになった。着の身着のまま避難してから、約1ヵ月後の再スタート。会津の人たちは、学校と子どもたちを温かく迎え入れてくれた。

<12年の避難生活>
再スタートから12年。小・中学校3校は統合されて、義務教育学校の「学び舎ゆめの森」へ生まれ変わり、体育館を埋め尽くしていた子どもは8人に減った。

一方、大熊町では避難指示の解除が進み、2023年4月に学校は12年ぶりに大熊町へ戻ることになった。8人のほとんどは学校と一緒に町へ戻る予定だが、思いは少し複雑なようだ。

斎藤羽菜さん(8年生):「自分の故郷に帰れるとなると楽しみではあるけれど、やっぱり会津若松市と別れるのは寂しいです」

<避難先で生まれ育つ 大熊町を知らない>
4年生の後藤愛琉さんは、避難先の会津で生まれ育ったため、大熊町に住んだことはない。それでも大熊町は、父親の故郷で自分も暮らすはずだった場所。いずれ帰ることを見すえて、大熊町の学校へ通い続けてきた。

後藤愛琉さん:「大熊の学校に行ったら友達も増えるので、お友達と一緒に遊ぶのが楽しみです」

学校と一緒に大熊町へ戻るかどうか。選択を迫られた後藤さん家族は、愛琉さんの教育環境を優先し、少人数だからこそ手厚いサポートが期待できると考えて大熊町へ帰ることに決めた。

母・仁美さん:「建てた家を手放してまで、あっちに帰るっていう決断をしたのも、やっぱり子ども達の学びのため。引き続き娘のサポートしっかりします」

<創作劇に感謝を込めて>
住み慣れた会津若松市、そして通いなれた学校から離れることになる子どもたち。
これまで支えてくれた会津の人へ、創作劇で感謝を伝えた。

後藤愛琉さん(4年):「会津の皆さんに伝えたい事は"私達を支えてくれてありがとう"って言いたい」

会津の生活で感じたこと・学んだこと、これまで支えてもらったことへの感謝のメッセージ。そしてこれからも繋がっていたいという思いを込めた。

観劇した会津若松市の人は「本当に元気もらって。なんか涙ばっかり出ます、寂しくて。逆に私達が感謝したいくらいです」と話す。

劇を終え、斎藤羽菜さんは「ありがとうという思いを乗せて、言葉や動きに出して表現出来たので、すごく嬉しい」 また、後藤愛琉さん(4年)は「緊張したけれど、頑張って発表出来たなと思いました」と語った。

「"さよなら"じゃない"行ってきます"」...感謝といまの素直な思いを伝えた子どもたち。2023年春、新たな一歩を踏み出す。