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戦後80年経っても帰れぬ故郷 「自分の人生を台無しにした戦争」硫黄島から強制疎開させられた旧島民の思い

東京から南へ約1250キロ、太平洋上に浮かぶ硫黄島。戦前は約1100人の島民が豊かな暮らしを営んでいたが、太平洋戦争で本土防衛の最前線となり、島民たちは強制疎開を余儀なくされた。89歳の齋藤信治さんは故郷での穏やかな日々と、戦争によって奪われた島の暮らしを今も鮮明に記憶している。戦後80年経った今も、旧島民の帰島・定住は認められていない。
穏やかで裕福な島での暮らし
齋藤信治(さいとうしんじ)さんは、89歳になった今も、幼いころに過ごした島の記憶が蘇えるという。東京の南方・約1250キロ、太平洋上に浮かぶ硫黄島。ここが齋藤さんの"ふるさと"だ。
8人兄弟の次男として硫黄島で生まれた齋藤さん。島での生活は穏やかで豊かな日々だった。
「自給自足みたいな。米は内地から、白米ですよ。麦飯なんか食べたことない。生活はおおらかで食べ物は豊富で、お金の苦労もしなかったし」
故郷は本土防衛の最前線に
戦前、約1100人の島民が生活していた硫黄島。島民は漁業や農業を営み、齋藤さんもパイナップルやサトウキビをおやつ代わりに食べ、不自由なく暮らしていた。
しかし、穏やかな生活は戦争によって終りを告げる。
「南のところに防空壕があって、そこに入った時には兵隊さんも入ってきたのね。ひゅーんひゅーんって音がするわけだ。薬きょうはやたらと転がっていたね、その時に怖さを。これ防空壕に入っても爆弾落とされたら、終わりだなって子どもながらに思った」
戦争が激化し、本土防衛の最前線となった硫黄島。昭和19年の夏、島民は本土へ強制疎開を余儀なくされる。
「私たちは子どもだったから、急に夕方手を引かれて船に乗って引きあげた。だけど16歳15歳から上、ひとり者は軍属徴用で強制的に残されたわけだから、おかげさまで助かった」
太平洋戦争の激戦の地
本土空襲の中継地点として硫黄島を狙うアメリカ軍は、1945年2月に攻略作戦を開始。要衝の一つであった摺鉢山(すりばちやま)は形が変わるほどの大量の砲弾が撃ち込まれたという。
旧日本軍は島内に地下陣地を構築し、抗戦。1カ月余りにわたる戦いで、日米双方の死者は約3万人に上り、硫黄島は太平洋戦争の激戦の地となった。
東京への強制疎開後、空襲で兄弟の1人を失った齋藤さん。終戦後も生きることに必死な毎日だった。
「自分の人生を台無しにしたのは戦争だから。引き上げてきてから、東京で丸焼きになって、飲まず食わずで生き延びて、親に引かれて仙台に行ったり栃木に行ったり開拓に行ったり」
帰れぬ故郷
1968年、硫黄島はアメリカから日本に返還。その後、自衛隊の基地が整備された一方、火山活動や不発弾の処理などの理由から、現在も帰島・定住は認められていない。
遺骨収集や旧島民の墓参りなどが限定的に許され、齋藤さんもこれまでに何度も硫黄島に足を運んだ。
「本当に懐かしかったね。疎開から引き上げてくるときに、もう硫黄島には帰れないかなと子どもながらに思って。帰れなくても硫黄島に行って死ぬって、気持ちを持ちました。ずっとそういう気持ちがありました」
戦争で離れることを余儀なくされた、ふるさと・硫黄島。80年を経ても、旧島民の願いは実現していない。