ある家族の15年 原発事故で避難...そして帰還 "富岡町は故郷"これからもここで生きていく
いつか故郷・富岡町へ。原発事故後の避難生活で時に葛藤を抱えながら困難を乗り越えてきたある家族。震災から15年を迎えた家族の今を追った。
■余儀なくされた避難生活
福島県富岡町出身の山内笑(えみ)さん。生まれ育った富岡町で、結婚後も家族と平穏な日々を送っていたが、震災によってその生活は一変した。
原発事故後、夫の隆生(たかお)さんと娘の海咲(みさき)さんとともに、福島県会津若松市で避難生活を余儀なくされた。
当時・笑さんは「故郷に帰れるようになった時に、もう娘が学校も卒業して結婚して、子どももできてってなると、やっぱり私たちからは一緒に富岡町へ帰ろうとは強制できない」と語っていた。
笑さんの母校で震災前まで娘の海咲さんも通っていた、当時の富岡第一小学校。残されたままの学用品を運び出すために校舎に入ることができたのは、原発事故から2年8カ月後のことだった。
避難先に想い出の品を持ち帰る。当時12歳・娘の海咲さんは「心に残って大切な物になると思います。故郷ですごく大好きな所だったから」と話していた。
■故郷・富岡町へ戻る
あれから12年あまり。笑さんは福島県いわき市へ避難先を移した後、今は富岡町に戻って母親が経営する警備会社で働いている。
「やっぱり生まれ育った場所に戻りたい・帰りたいというのが一番で、母もその頃は広野町で営業を再開していたし、ゆくゆくは富岡に帰りたいと言っていたので、力になれたらいいなと思っていました」と笑さんはいう。
警備の仕事は浜通りがメインで、そこには復興を少しでも後押ししたいという親子の強い想いがある。母・栄子さん(73)は「早くこっちに家族みんなで来てくれないかなって、いつも思っていました。まず社員を幸せにすることが第一、それと地元・富岡の何かお役立ちができればなと常々思っております」と語る。
■家族の今 故郷への思い
一方、夫で福島県楢葉町出身の隆生さんは、一念発起し2025年1月に手打ちうどんの店「山笑う(やまわらう)」をオープン。
店名について隆生さんは「俳句の季語にある『山笑う』、春のスタートという意味もあって、これからお店を始めていくぞという思いでつけました」と話してくれた。
震災当時、小学生だった娘の海咲さんは、高校を卒業後は東京へ進学し今は都内でウエディングプランナーとして働いている。
「娘は震災時小学校3年生で記憶もあまりないと思う。でも"あなたの故郷はここ富岡だよ"ということは伝えている。私がいることによって"帰ってくる場所"だということは言っている。家族はこれからも変わらず強い絆で結ばれていると思っているので、誰がどこにいて何をしようとお互いを思う気持ちを大切にしながら変わらず仲良くやっていきたい」と笑さんは話した。
今も一部で避難指示が続く富岡町。人口は約1万1000人だが、実際に町に住むのは2700人あまりで、多くの人が帰還に踏み切れない状況が続いている。
それでも笑さんは「変わらず自分がここにいる。ここで自分ができることをする。仕事もそうですし、町のために出来ることがあれば一生懸命やっていきたい。それで町が活性化すればうれしいですし、本当小さな力ですけど何か力になりたい」と語る。
家族との絆を胸に、故郷でこれからも生きていく。「あの日」から15年を迎えた笑さんの揺るぎない想いだ。
















